神社案内 / PROFILE

御祭神・御神徳

九州/福岡/糸島のパワースポット神社。妊娠/妊活/不妊治療の子授け・安産の神石を祀る子宝神社 鎮懐石八幡宮。山上憶良が詠んだ万葉集の歌、九州最古の万葉歌碑。
古事記・日本書紀の鎮懐石(子産石)を祀る鎮懐石八幡宮

■ 神社名

鎮懐石八幡宮(ちんかいせき はちまんぐう)

Chinkaiseki Hachimangu Shrine

 

■ 御祭神

・神功皇后(子授け・安産の神様)

・応神天皇(八幡神:勝負運・勝運、出世、開運の神様) 

・武内宿祢

 

■ 御神徳

1800年前の西暦200年に、神功皇后が安産を祈願された『鎮懐石』(ちんかいせき、子産石)を祀る子宝神社。

『子授け・安産』の御神徳を古くから信仰されてきました。

・本社の神殿に『安産』の鎮懐石がお祀りされています。

・展望台の社に『子授』の陰陽石がお祀りされています。

 

Chinkaiseki Hachimangu Shrine is a historic Shinto shrine which was enshrined the holy stones named "Chinkaiseki" since A.D. 200 (1800 years ago) in the Japanese Mythology in Kojiki (Records of Ancient Matters) and Nihonshoki (Chronicles of Japan).

Here is a famous shrine which has power to bless couples with BABY through pregnancy and safe childbirth (smooth delivery). It is believed by praying in the shrine, couples will be blessed with a newborn.

[Divine Virtue / Divine Favor]

- Stones for "Safe Childbirth" in the main shrine

- Stones for "Pregnancy" in the sub shrine at the overlook

 

■ 境内社

・金刀比羅宮(石橋の所):海上安全・交通安全、商売繁盛、金運

・賽三柱神(展望台の社):災厄除け、地域守護、家内安全

・猿田彦神(上り坂の所):導きの神様・道開きの神様

地名「子負原」の由来

九州/福岡/糸島のパワースポット神社。古事記・日本書紀に書かれている、妊娠/妊活/不妊治療の子授けと安産の神石を祀る子宝神社 鎮懐石八幡宮。山上憶良が詠んだ万葉集の歌、九州最古の万葉歌碑。
鳥居、万葉歌碑、鎮懐石碑、ツツジの花

■ 「子産石」(鎮懐石)と「子負原」

鎮懐石八幡宮は深江の「子負原」(こぶのはら / こぶがはら)という場所にあります。この地名は、神社に祭祀されている鎮懐石から名付けられたものです。

 

昔、鎮懐石は「皇子産石」(みこうぶいし)から「子産石」(こうぶいし)と呼ばれ、それが訛って「子饗石」(こぶのいし)と呼ばれるようになり、それが地名「子負原」(こぶのはら / こぶがはら)になりました。

つまり「子産石」(こうぶいし)がお祀りされている丘、ということから「子負原」(こぶのはら / こぶがはら)という地名になりました。

 

山上憶良(やまのうえのおくら)の万葉歌(奈良時代726年)には「深江村 子負原」と記されています。奈良時代には既に、鎮懐石/子産石ゆかりの地名「子負原」で呼ばれていました。 

御由緒

鎮懐石八幡宮の神功皇后ゆかりの船繋石
神功皇后の船の艫綱(ともづな)を繋いだ「船繋ぎ石」 

■ 由緒

日本最古の書物である古事記(和銅5年 / 西暦712年)と日本書紀(養老4年 / 西暦720年)に当社の由緒が記されています。

 

仲哀天皇9年(西暦200年)、神功皇后が深江を通られた際、皇子(応神天皇)の安全無事な出産を祈願され、深江海岸にあった二つの石を腹に挟んで鎮懐(しずめ)られ、「ここで産まれてほしい」と祈願されました。

帰路この地を通られた時に、子負ヶ原(こぶがはら)の丘に石をお納めになりました。

 

後世の人々から『鎮懐石』または皇子産石(みこうぶいし) / 子産石(こうぶいし)と呼ばれ崇敬されてきました。

 

■ 古事記・日本書紀の記述

 神功皇后は松浦の津から出航する計画で、途中、怡土(いと)の津(現在の深江)に寄港された。

 ある日、皇后が浜辺に出て深江海岸を歩いておられると、白い光を放ち輝く二個の石を発見された。 近づきになると普通とは思われぬ美しい石であった。

 

 皇后はご懐妊の身で船で出征することは少なからず不安を感じておられ、何か安泰な道はないものかと、神にも祈ってあったので「これはただの石ではない、きっと神よりのお授けであろうと」とうやうやしく拾い上げて懐中にはさみ、天を仰いで感謝された。陣屋に帰って、子負ヶ原(こぶがはら)の丘の上に御降神の儀を行い、

「願わくば、かの新羅を征してめでたく凱旋するまでは皇子の誕生なきよう御守護を垂れ給え」と御祈願になった。

 

 三柱の神が託宣された行事を行って、いよいよ皇軍の兵船を海へ出されると、不思議にも、海原に住む魚がことごとく集まって来て、船を背に乗せたのであった。そして、一陣の追い風を受けると、一気に進み、その波は新羅の国に押し上がって、国の半分の陸上にまで達したという。

 この海上の船中にも、皇后は腹部に御異常を感ぜられるごとに、常に懐にさしはさんであったこの二つの神石でお撫でになると不思議と気分が治まるので皇后はたいそう御喜びになり、絶えずこの神石をお身体から放されることはなかった

 こうして新羅より無事凱旋なさると、めでたく胎中の天皇が御降誕になった。後の応神天皇である。皇后のご安堵と御喜びは一方ではなかった。

 

 その後、皇后はこの神石を祈願の地、子負ヶ原丘上に納めて長く祀られたのである。その後この宮の前を行き来する者は下馬したり、ひざまづいて拝んだと万葉集にも書き残されているが、この頃からこの神石を皇子産石(みこうぶいし)とも鎮懐石とも呼ぶようになったと言われている。

九州最古の万葉歌碑

九州/福岡/糸島の子宝神社 鎮懐石八幡宮にある九州最古の万葉歌碑。 The oldest monument of Manyoshu (The Anthology of Ten Thousand Leaves : Japan's oldest anthology of poetry) in the Kyushu region
山上憶良が鎮懐石を見て詠んだ万葉集の石碑

■ 山上憶良の万葉歌

古事記・日本書紀に記された鎮懐石伝承に感銘を受けた奈良時代の歌人 山上憶良(やまのうえのおくら)726年に深江を訪れ 詠んだ歌が万葉集に収められています。

 

この地で見た光景をこう記しています。

「街道を通る人は、この石を敬拝する。馬から降りて跪拝(両ひざをついて拝礼)しない人はいない」

 

This stone was built in 1859 the Edo periodo as the oldest monument of Manyoshu (The Anthology of Ten Thousand Leaves : Japan's oldest anthology of poetry) in the Kyushu region. The poem was written by Yamanoue no Okura in 726.

 

■ 九州最古の万葉歌碑

江戸時代の1859年(安政6年)に、この万葉歌を記念して九州最古の万葉歌碑が建てられました。万葉歌碑は、糸島市の指定文化財となっています。

奈良時代、聖武天皇(しょうむてんのう)の御代神亀3年(726年)、山上憶良は筑前の国守に任ぜられ、九州に赴任した時に筑前簑島の住人 建部牛麿(たけべのうしまろ)から鎮懐石伝説を聞き、長歌および反歌に詠じて、その縁起を述べている。

書は豊前中津藩の深江在住の儒学者であり、書役に任じられた日巡武澄(ひよしたけすみ)による。

 

阿米都知能(あめつちの) 等母爾比佐斯久(ともにひさしく) 伊比都夏等(いいつげと) 許能久斯美多麻(このくしみたま) 志可志家良斯母(しかしけらしも)

天地(あめつち)の 共に久しく 言ひ継げと この奇魂(くしみたま) 敷かしけらしも 

山上憶良が詠んだ万葉集の歌、九州最古の万葉歌碑の拓本。 The oldest monument of Manyoshu (The Anthology of Ten Thousand Leaves : Japan's oldest anthology of poetry) in the Kyushu region
奈良時代726年、筑前守 山上憶良が詠んだ万葉集

鎮懐石碑

鎮懐石八幡宮の由来を書いた鎮懐石の石碑
鎮懐石八幡宮の由緒や伝承が記された鎮懐石碑

■ 鎮懐石碑

文化11年(1814年)に建てられた碑で、鎮座の由来を書いている。

文は亀井南冥(かめいなんめい)の高弟、苓州江上源伯(れいしゅう えがみげんぱく)による。書は福岡藩の藩医であった米山 上村樗(べいざん かみむらちょ)による。

 

■ 碑文

筑之西偏(ちくのせいへん)の郡(こおり)を怡土(いと)と曰(い)う

怡土之邑驛(むらえきや)を深江と曰う 驛之西皋(えきやのせいこう)を萩之原(はぎのはる)と曰う

實は子負原(こぶがはら)なり 寶石(ほうせき)有り 名を鎮懐と曰う 世(よよ)神と而(して)之を祭ると云えり 諸(もろもろ)の國史を考うるに 神后足姫(しんこうたらしひめ) 氏之(うじの)韓を征する也(や) 時に應神帝を姙(はらま)りて月を彌(ひさ)しくす 迺(すなわち)祝いて曰(いわ)く 振旅(しんりょ)凱旋して後(のち) 分免(ぶんべん)を願うと 乃(すなわ)ち 兩石(りょうせき)を采(と)りて諸(これ)を腰帯に挿(さしはさ)み 遂(つい)に其言(そのげん)の如く歸(かえ)りて諸(これ)を斯(こ)の原に措(お)く  往還(おうかん)する者下馬跪拝(げばきはい)せざる莫(な)し  萬葉之歌に之を詠(うた)い  奇御靈(くしみたま)と曰(い)う

 奇御靈の讀みは玖志美多末(くしみたま)と為(な)す  今を距(へだ)つる 百五六十年までは

其石具(とも)に在り  後所在(しょざい)を失す  天和(てんな)癸亥(みずのと)(三年)に至り驛民(えきみん)其一(そのいつ)を拾得す  則(すなわ)ち鳩有り  其家を祥(さいわい)す

是(ここ)に於(お)いて邑民(ゆうみん)協議し小祠(しょうし)を建てて藏(ぞう)す

誓(ちか)って人に示すを肯(がえん)ぜず  今萬葉の紀(き)する所を閲(けみ)するに

其の大きさ尺有餘寸  その重さ十有餘斤(きん)  尋常の宮媛(きゅうえん)之得(これをえ)て

挟持(はさみもつ)所には非ざる也(なり)  顧るに神后(じんこう)之(の)哲威(てつい)は殊域(しゅいき)を拖服(たふく)し  其躯幹臂力(くかんびりょく)亦夐(またはるか)に衆に超(こ)ゆる者有しか  娀(しゅう)卵を呑み姜嫄武(きょうげんぶ)を履(ふ)むこと古より之を傳う有り

其奇(そのき)又(また)甚(はなはだ)し  何ぞ獨(ひと)り斯(その)石を疑わん哉(や)

邑之父老(むらのふろう)  神蹤(しんせき)之即(のただちに)堙鬱(いんうつ)するを恐れ

余(よ)に謁(こ)い之を記(しる)し  以って之を貞石(ていせき)に勒(ろく)す

 

文化甲戌(きのえいぬ)(十一年)季夏 

苓州(れいしゅう)江上源伯(えがみげんぱく)華父撰(かふせん)

米山(べいざん) 上邨樗(かみむらちょ)太壽書(たいじゅしょ)并(ならび)篆額(てんがく)

狂歌碑

石段の踊り場にある石碑
狂歌碑

あらそわぬ 風の柳のいとにこそ 堪忍袋 ぬふべかりけれ

 

詠者は「真顔」鹿都部真顔(しかつべのまがお)黄表紙本作者、恋川好町のことで蜀山人の門下生。通称北川嘉兵衛という江戸の人。

 

この狂歌は江戸時代の有名な狂歌作者 四方赤良(よものあから)本名 太田南畝(蜀山人)(1749 - 1823年)の狂歌才蔵集に入っている。

平成30年の祭典

鎮懐石八幡宮の社殿
拝殿から、幣殿、本殿(神殿)を拝む

11日(月) 歳旦祭 午前/夜の12

313日(火) 神殿竣工式・宮司就任式(約100名の大きな奉祝祭) 午前10

44日(水) 祈年祭 午前10

91日(土) 風止祈願祭 午前10

929日(土) 放生会 午前11時 深江放生会囃子奉納

127日(金) 新嘗祭 午前11