由緒  HISTORY

福岡県 糸島市、鎮懐石八幡宮

 

2012年は『古事記』(712年)鎮懐石八幡宮が記されてから1300周年。

2020年は『日本書紀』(720年)鎮懐石八幡宮が記されてから1300周年

2029年は『万葉集』で山上憶良が鎮懐石八幡宮の歌(729年)を詠んで1300周年。

 

目次  Table of Contents

(1) 御祭神・御神徳  Enshrined Deities, Divine Favor

(2) 地名『子負原』の由来

(3) 歴史・由緒  History

(4) 九州最古の万葉歌碑  Oldest stone monument of Manyoshu in the Kyushu

(5) 鎮懐石碑

(6) 狂歌碑

(7) 深江放生会囃子

(8) 昔の写真  Old Pictures

(9) 新本殿

 

御祭神・御神徳  Profile

福岡 糸島にある子授け・安産の子宝神社
古事記・日本書紀・万葉集の鎮懐石(子産石)を祀る神社

神社名  Shrine Name

鎮懐石八幡宮(ちんかいせき はちまんぐう)

Chinkaiseki Hachimangu Shrine

  

御祭神  Enshrined Deities

• 神功皇后(子授け・安産、子宝の神様)

• 応神天皇(八幡神:勝運、出世、開運) 

• 武内宿祢

 

歴史  History

奈良時代に書かれた古事記(712年)・日本書紀(720年)・万葉集によると、今から約1800年前の西暦200年(仲哀天皇9年)に神功皇后が安全無事な出産を祈願された鎮懐石(ちんかいせき、子産石)を、伊都(現在の糸島)の深江村の丘に納められたことが起源です。

丘の上に祀られた石が「皇子産石」あるいは「子産石」と呼ばれ、この奇魂(くしみたま)は古代から悠久の時の流れの中で信仰されてきました。

万葉集によると、この丘に神霊の宿る石をお置きになったということは、子負原が神霊によって守られる地であることを示していると書かれています。

 

古事記・日本書紀などに「神功皇后が安産を祈って腹に巻いた石は糸島(鎮懐石八幡宮)にあると記されています。(下に原文と現代訳あり)

 

御利益  Divine Favor

・神功皇后子授安産の御神徳が古くから信仰されてきました。

 - 本殿に『安産』の鎮懐石がお祀りされています。(木箱の中に納めてお祀りされており、見ることはできません)

 - 展望所の社殿に『子授け』の陰陽石がお祀りされています。

ご出産なされた皇子、応神天皇(八幡神)は、勝負運、出世、開運の神様。

・猿田彦神は、導き道開きの神様。

・金刀比羅宮は、海上/航海安全、交通/旅行の安全、導き、商売繁盛、金運の神様。

 

Chinkaiseki Hachimangu is a famous shrine which is enshrined the sacred stones named "Chinkaiseki" since A.D. 200 (1800 years ago) in the Japanese Mythology in Kojiki (Records of Ancient Matters), Nihonshoki (Chronicles of Japan), and Manyoshu (The Anthology of Ten Thousand Leaves : Japan's oldest anthology of poetry).

The shrine has power to bless couple with the birth of BABY through pregnancy and safe childbirth.

[Divine Favor]

・Birth of Baby (Childbirth) by Pregnancy and Safe Delivery.

・Good luck, Victory, Career Success, Leading to a Better Future.

Prosperous business, economic fortune, travel and traffic safety.

 

鎮懐石八幡宮の本殿と摂社・末社
本殿と境内社

本宮と境内社

【鎮懐石八幡宮】

・神功皇后は子授け安産、子宝の神様

・応神天皇は勝負運、出世、開運の八幡神

・武内宿禰

【展望台の社殿】

・賽三柱神:道の守り神、導きの神様地域の守護神

・陰陽石子宝の神様

【金刀比羅宮】石橋の横

海上/交通/旅行の安全、商売繁盛、金運、導きの神様

(1)「金刀比羅」は四国讃岐の金毘羅様で、海上安全、商売繁盛、金運のご利益。

(2)「志賀大神」は福岡市東区志賀島の志賀海神社の祭神で、海の表・中・底を守る海の神。

(3)「住吉大神」は福岡市博多区の住吉神社の祭神で航海安全と船舶守護のご利益。 

猿田彦神】金木犀の下

導き道開きの神様。

 

Main Shrine, Sub Shrines

・Chinkaiseki Hachimangu (main shrine)

- God of childbirth, safe delivery.

- God of good luck, victory, career success.

・Shrine at observatory

- Sae-no-kami god : Village guardian deity, expel evil. God of guidance.

Yin yang stone: Pregnancy 

・Kotohira Shrine (near stone bridge) : Prosperous business, economic fortune, travel and traffic safety.

・Sarutahiko god (stone at slope) : Guide to help someone's life.

地名『子負原』の由来

福岡 糸島の子授けと安産の神石を祀る子宝神社。山上憶良が詠んだ万葉集の歌、九州最古の万葉歌碑。
鎮懐石の神霊が宿る丘 (J:COMテレビ)

『子産石』が地名『子負原』に

鎮懐石八幡宮は深江の「子負原」(こぶがはら)にあります。「子産石」(鎮懐石)が祀られた丘(原)が地名「子負原」になったと伝えられています。

 

大昔、鎮懐石は「皇子産石」(みこうみいし)から「子産石」(こうみいし)と呼ばれ、それが訛って「子饗石」(こふのいし)と呼ばれるようになり、それが地名「子負原」になったことが古文書や郷土歴史書に記されています。

 

古く奈良時代における山上憶良の万葉歌には「深江村 子負原」と既にこの地名が記されています。つまり、奈良時代よりもっと古い飛鳥時代・古墳時代から鎮懐石の信仰・伝承が受け継がれてきたことになります。

歴史・由緒  History

古事記•日本書紀に書かれている鎮懐石八幡宮の歴史と由緒
『日本書紀』に記された鎮懐石八幡宮 (J:COMテレビ)

由緒

〜2020年は『日本書紀』完成1300周年〜

鎮懐石八幡宮の由緒は、日本最古の書物『古事記』(和銅5年/712)、日本最古の歴史書『日本書紀』(養老4年/720年)、日本最古の歌集である『万葉集』などの奈良時代の古文書に記されています。

 

仲哀天皇9(西暦200)、神功皇后が戦に向けてこの地を通られた時は、身籠もられていた皇子(応神天皇)の産み月に当たった。戦の最中に生まれては困るため、戦いが終わり帰ってきてから産まれてほしいと安全無事な出産を祈願され、深江海岸にあった二つの石を腰に挿し挟ん気持ちを鎮懐(しずめ)られた。

帰路この地を通られた時に、この石を丘の上にお納めになりました。

後世の人々から鎮懐石または皇子産石(みこうみいし) / 子産石(こうみいし)と呼ばれ崇敬されてきました。

 

●『古事記』中巻 仲哀天皇 段四《鎮懐石渡釣魚》(奈良時代712年編纂)

〜古事記は日本最古の書物であり歴史書〜

《原文》

故、其政未竟之間、其懐妊臨産。即為鎮御腹、取石以纏御裳之腰而、渡筑紫国、其御子者阿礼坐。

故、号其御子生地謂宇美也。亦所纏其御裳之石者、在筑紫国之伊斗村也

《現代訳》

まだ戦が終わっていない時に、神功皇后の懐妊されていた子(応神天皇)が産まれそうになりました。そこで皇后は、腹を鎮めるために、石を腰につけました。そして九州の筑紫に渡ってから出産しました。

その皇子が生まれた土地の名を宇美(うみ)と言います。その腰に巻いた石は筑紫国の伊斗村(いとのむら)にあります

 

●『日本書紀』巻第九 氣長足姫尊 神功皇后(奈良時代720年編纂)

〜日本書紀は日本最古の正史(最も正統と認められた歴史書)〜

《原文》

適當皇后之開胎、皇后則取石挿腰而祈之曰「事竟還日、産於茲土」其石今在于伊都縣道邊

《現代訳》

そのとき、皇后は出産が始まりそうになりました。皇后はすぐに石を取って腰に挟んで、祈って言いました。 「事を終えて、帰った日にこの地で生まれてほしい」  その石は今、伊都縣(いとのあがた)の道のほとりにある

 

●『万葉集』巻第五 山上憶良(奈良時代726~729年頃の歌)

〜万葉集は日本最古の和歌集〜

*全文は、一つ下の項目『九州最古の万葉歌碑』に掲載しています。以下は一部を抜粋。 

《原文》

筑前國 怡土郡 深江村 子負原の海に臨める丘の上に二石あり〜中略〜 

公私の往来に馬より下りて跪拝(おろが)まずということなし。

《現代訳》

筑前国 怡土郡 深江村 子負原の海を臨む丘の上に二つの石がある〜中略〜

街道を通る人は馬から降りて跪拝(両ひざをついて拝礼)しない人はいない。

 

『釈日本紀』逸文 巻十一 述義七「皇后取レ石挿レ腰」の項(鎌倉時代1264年〜1301年に編纂、日本書紀の注釈書)

〜筑紫風土記 曰く〜

《原文》

逸都縣子饗原有石兩顆 一者片長一尺二寸周一尺八寸 一者長一尺一寸周一尺八寸 

色白而鞭圓如磨成 俗傳云 息長足比賣命欲伐新羅 閲軍之際懐妊漸動 時取兩石挿著裙腰 

遂襲新羅 凱旋之日至芋湄野太子誕生 

有此囙縁曰芋湄野(謂產爲芋湄者 風俗言詞耳)

俗間婦人忽然娠動裙腰挿石厭令延時 蓋由此乎

《現代訳》

逸都県(いとあがた)の子饗原(こふのはら)に二つの石が有る。一つは長さ一尺二寸、周り一尺八寸。一つは長さ一尺一寸、周り一尺八寸。 

色は白く磨かれたような丸さである。俗に伝わっているのは、息長足比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が新羅に軍を進めていた際は懐妊されており、皇子が生まれそうになられた。その時、二つの石をとって腰に挟んで身に付けられた。

新羅から凱旋された日、芋湄野(うみの)に到着して皇子が誕生した。この因縁で芋湄野と言う。

世間で妊婦の胎動が起これば、下着の腰に石をはさんで時期を延ばすのは、この由緒による。

 

〜筑前国風土記 曰く〜 

《原文》

怡土郡兒饗野(在郡西)此野之西有白石二顆 (一顆長一尺二寸大一尺重卌一斤 一顆長一尺一寸大一尺重卌九斤)

曩者氣長足姫尊欲征新羅 至於此村御身有姙忽當誕生 登時取此二顆石挿於御腰 

祈曰 朕欲定西堺來著此野 所姙皇子若此神者凱旋之後誕生其可 遂定西堺還來卽產也 

所謂譽田天皇是也 時人号其石曰皇子產石 今訛謂兒饗石

《現代訳》

怡土郡の西に児饗野(こふの)という場所がある。二個の白い石がある。一つは、長さ一尺二寸、周り一尺、重さ四十一斤。もう一つは、長さ一尺一寸、周り一尺、重さ四十九斤である。

昔、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が新羅に遠征しようとしてこの村においでになった。

神功皇后は妊娠されていたが、産まれそうになったので、この二個の石をとって腰に挟み、祈って仰られた。

『私は、西の国境を定めようとしてこの野に着いた。孕んだ皇子が神の子ならば、凱旋した後に誕生なされるとよいだろう』

ついに西の境界を平定し、還ってからお産みになった。いわゆる誉田天皇(ほむたのすめらみこと=応神天皇)がこれである。

当時の人は、その石を名づけて『皇子産の石』(みこうみのいし)といった。今は訛って『兒(児)饗の石』(こふのいし)という

 

●『糸島伝説集』〜白く光り輝く二つの石〜(昭和48年/1973年出版)

深江の西南、500メートルの所、国道沿いに玄界灘に向かい、苔むした自然石を高く城のように築き上げたお宮がある。これが鎮懐石で有名な子負原八幡宮である。祭神は、応神天皇、神功皇后、武内宿禰の三柱であるが、御神体として祀ってある鎮懐石については奇蹟的な話が伝えられている。

 

神功皇后が松浦の津から出航する計画で、途中、怡土の津(深江)に寄港された。ある日、皇后が浜辺に出て小浜(御浜、現在の深江海岸)を歩いておられると、白い光を放ち輝く二個の石を発見された。 近づきになると普通とは思われぬ美しい石であった。

 

皇后はご懐妊の身で船で出征することは少なからず不安を感じておられ、何か安泰な道はないものかと、神にも祈ってあったので「これはただの石ではない、きっと神よりのお授けであろうと」とうやうやしく拾い上げて懐中にはさみ、天を仰いで感謝された。陣屋に帰って、子負原(こぶがはら)の丘の上に御降神の儀を行い、「願わくば、かの新羅を征してめでたく凱旋するまでは皇子の誕生なきよう御守護を垂れ給え」とご祈願になった。

 

三柱の神が託宣された行事を行って、いよいよ皇軍の兵船を海へ出されると、不思議にも、海原に住む魚がことごとく集まって来て、船を背に乗せたのであった。そして、一陣の追い風を受けると、一気に進み、その波は新羅の国に押し上がって、国の半分の陸上にまで達したという。

 

この海上の船中にも、皇后は腹部に御異常を感ぜられるごとに、常に懐にさしはさんであったこの二つの神石でお撫でになると不思議と気分が治まるので皇后はたいそうお喜びになり、絶えずこの神石をお身体から放されることはなかった

 

こうして新羅より無事凱旋なさると、めでたく胎中の天皇が御降誕になった。後の応神天皇である。皇后のご安堵とお喜びは一方ではなかった。

 

その後、皇后はこの神石を祈願の地、子負原の丘上に納めて永く祀られたのである。その後この宮の前を行き来する者は下馬したり、ひざまづいて拝んだと万葉集にも書き残されているが、この頃からこの神石を皇子産石(みこうみいし)とも鎮懐石とも呼ぶようになった。

 

なお、社前に御船をつながれたという『船繋ぎ石』(または艫綱石 ともつないし)が玉垣をめぐらし残されているのも珍しい。

また、この八幡宮前の海岸には唐図貝というよその海には見ることのできない貝が住んでいる。貝殻の紋様が唐図を現しているので唐図貝というのだが、皇后が新羅から土産物として持ち帰られたのをこの海に放たれたのが住みついたものと言われており、これも珍しい話である。

九州最古の万葉歌碑

鎮懐石八幡宮にある九州最古の万葉歌碑。 The oldest monument of Manyoshu (The Anthology of Ten Thousand Leaves : Japan's oldest anthology of poetry) in the Kyushu region
山上憶良が鎮懐石を詠んだ万葉集の石碑

2029年は、『万葉集』で山上憶良が鎮懐石八幡宮の歌(729年)を詠んでから1300周年

 

山上憶良の万葉歌

〜万葉集は日本最古の和歌集〜

古事記・日本書紀の鎮懐石伝承に感銘受けた奈良時代の万葉歌人 山上憶良(やまのうえのおくら詠んだ歌が万葉集に収められています。

武天皇の御代726年(神亀3)山上憶良は筑前の国守に任ぜられ、福岡に赴任した。筑前簑島の住人 建部牛麻呂(たけべのうしまろ)から鎮懐石伝説を聞き、長歌および反歌に詠じて、その台詞に鎮懐石の形状、所在地、ならびにその縁起を述べています。

  

九州最古の万葉歌碑

〜糸島市指定文化財〜

江戸時代1859年(安政6)に、この万葉歌を記念して九州最古の万葉歌碑が建てられました碑面は、万葉集 巻第五に所載されている鎮懐石を詠じた山上憶良の歌詞題詞を刻んだものです。万葉歌碑は、糸島市の有形指定文化財となっています。

は、深江在住の豊前中津藩儒学者 日巡武ひよし たけずみよるもので、流麗な書体は美術的にも価値が高いものとされています。

 

Famous poet Yamanoue no Okura composed about the sacred stones in around 726 - 729.

The oldest stone monument of Manyoshu (The Anthology of Ten Thousand Leaves : Japan's oldest anthology of poetry) in the Kyushu region was built in 1856 the Edo period about the poem.

 

萬葉集 第五 筑前守 山上臣憶良 詠ならびに序文

山上臣憶良 詠鎮懐石 歌一首併短歌

 

《読み下し文》

筑前國怡土郡深江村子負原の海を臨める丘の上に二石あり 大きなるは長さ一尺二寸六分 圍(めぐり=周囲)一尺八寸六分 重さ十八斤五両 小さきなるは長さ一尺一寸 圍(めぐり 周囲)一尺八寸 重さ十六斤十両 並(とも)に皆楕(楕円)にして状鶏の子(かたちとりのこ=卵型)の如し 其の美好(うるわ)しきこと論(あげつろ)ふに勝(と)ふべからず 所謂径尺の璧(たま)是なり

深江の駅家を去ること二十許里 近く路頭(みちのほとり)にあり 公私の往来に馬より下りて跪拝(跪いて拝む, おろが)まずということ莫し(無し)

古老相伝へて曰く 往者(いにしえ)息長足日女命(おきながたらしひめのみこと, 神功皇后) 新羅國を征討(ことむけ)ましし時 茲の両(二つ)の石を用ちて御袖の中にさし挿み箸けて以ちて鎮懐(しずめ)と為したまひき 所以(ゆえに)行人此石を敬拝すといへり 乃ち歌を作りて曰く

 

<長歌>

懸けまくは あやに畏(かしこ)し 足日女(たらしひめ=神功皇后) 神の命(みこと) 韓国(からくに)を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代(よろずよ)に 言い継ぐがねと 海(わた)の底 沖つ深江の 海上(うなかみ)の 子負の原に み手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇魂 今の現に 尊きろかむ

<反歌>

阿米都知能 等母爾比佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻 志可志家良斯母

天地(あめつち)の 共に久しく 言ひ継げと この奇魂(くしみたま) 敷かしけらしも

 

《現代訳》

筑前国怡土郡深江村(現在の福岡県糸島市二丈深江)子負原の海を臨む丘の上に二つの石がある。大きい石は、長さ一尺二寸六分、周囲一尺八寸六分、重さ十八斤五両。小さい石は、長さ一尺一寸、周囲一尺八寸、重さ十六斤十両。両方とも楕円形で卵のような形をしている。その美わしいことは言うに及ばず。まるで直径30cmの璧(古代中国で祭祀用や威信財として使われた玉器)である。

 

深江の駅家(うまや, えきか=古代駅伝制の役所)から約8km(二許里=約800mが正しい表記であろうと言われている)の道のほとりにある。往来する人は公私にかかわらず馬から降りて跪き拝まない人はいない。

 

古老の伝えによると、遠い昔 息長足日女神の命(神功皇后)が新羅に遠征された時、二つの石を袖の中に挿し挟んで身に付け心を鎮懐(しずめ)られた。このため道行く人はこの石を敬い拝むと言う。この歌を作って詠う。

 

<長歌>

口に出して言うのも畏れ多い神功皇后が、新羅の国を平定される時、御心を鎮めるために手に取られて大切に祈りを込められた美しい玉のような二つの石を、世の人々に示されて万代に言い継ぐようにと、海の底 深江の海上にある子負原にご自身の手で置かれて、神として神々しい霊妙な神石は今現在も尊いことである。

<反歌>

天地が永久であるように共に永遠に語り継ぐように、この不思議な力を持つ霊石がここにお祀りされたのだろう。そして、この地(子負原)は神霊が宿り守られていくのだろう。

山上憶良が詠んだ万葉集の歌、九州最古の万葉歌碑の拓本。 The oldest monument of Manyoshu (The Anthology of Ten Thousand Leaves : Japan's oldest anthology of poetry) in the Kyushu region
奈良時代、筑前守 山上憶良が詠んだ万葉集の歌
万葉集 巻第五
万葉集 巻第五『令和』と鎮懐石八幡宮の歌

鎮懐石八幡宮の隣に令和

〜巻第五は福岡を中心にした歌集〜

万葉集から命名された新元号『令和』は、山上憶良が鎮懐石八幡宮の神石を詠んだ歌の次に書かれています。映像で紹介される時に当神社の歌も映ります。このため万葉歌碑を訪ねて来られる方が増えています。

 

山上憶良

729~730年『九州最古の万葉歌碑』糸島の鎮懐石八幡宮の歌を詠み、730年『令和』太宰府の坂本八幡宮の新年歌会でも歌を詠む。

 

奈良時代729年(天平元年)頃 福岡県糸島市二丈深江  鎮懐石八幡宮

阿米都知能 等母爾比佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻 志可志家良斯母

(天地(あめつち)の  共に久しく  言ひ継げと  この奇魂(くしみたま)  敷かしけらしも)

 

奈良時代730年(天平2年) 福岡県太宰府市

初春月   氣淑風   梅披鏡前之粉   蘭薫珮後之香

(初春月にして 気淑く風ぐ)

 

山上憶良の福岡県における活動

神亀3年(726年)、筑前守に任ぜられ福岡に赴任。

神亀5年(728年)頃までに、大宰帥に着任した大伴旅人と筑紫歌壇を形成。

天平元年(729年)頃に、糸島の『鎮懐石』の歌を詠んだ。

天平2年(730年)、太宰府の大伴旅人の邸宅における観梅の宴『令和』。

天平4年(732年)、筑前守の任期を終えて帰京。

 

鎮懐石を詠んだ年を729年と記載した背景

・山上憶良が福岡赴任中の神亀3年(726年)〜天平4年(732年)の6年の間に詠まれているが、日付が記載されていない。

・万葉集は日付の古い順に編纂されており、鎮懐石八幡宮の直前の歌が「天平元年(729年) 118日」、直後の歌が「天平2年(730年)1月13日 令和の宴」となっているため、鎮懐石の歌は729年11月9日〜730年1月12日に詠まれたものと考えられる。

・新春会「令和の宴」を開催する730年113日以前の1日〜12日の正月の忙しい時期よりも、729年11月9日〜12月31日に詠んだ可能性が高いのではないかと考え、当サイトには歌を詠んだ年を天平元年(729年)と記載した

鎮懐石八幡宮の由緒書パンルレット 万葉集
鎮懐石八幡宮の由緒書パンフレット 万葉歌碑の拓本

神社由緒書パンフレット(カラー12ページ ¥800円)

・神社の紹介

・九州最古の万葉歌碑の拓本

・古事記・日本書紀・万葉集の原文と現代訳

・糸島伝説集

・鎮懐石碑の碑文

・古から伝わる境内の石

・四季の写真、など

Brochure (12 pages color print, ¥ 800 yen) of Chinkaiseki Hachimangu Shrine.

 

メディア紹介など

『日本書紀』テレビ番組で紹介

平成29年(2017)4月7日 テレビ番組(J:COMケーブルTV)『発見!筑紫の歴史 時空の旅人』「糸島の神功皇后伝承」

『日本書紀』(奈良時代720年)に、鎮懐石八幡宮について記されています。

「臨月になっていた皇后は石を腰に挟み、戦いが終わり戻ってきた日に、ここで生まれてほしいと祈った。その石は今、伊都縣の道のほとりにある。」

Featured as a prestigious shrine on the historical TV program on April 7, 2017.

香椎宮のお守り『鎮懐石御守』

香椎宮(福岡市東区)では、安産祈願のご参拝者さまに鎮懐石御守」という石の御守をお渡しになります。

説明文には「この石は鎮懐石と呼ばれ、糸島市の鎮懐石八幡宮にお祀りされています」と紹介されています。

Kashii-gu Shrine gives a stone named “Chinkaiseki” to prayer for safe childbirth.

伊都国歴史博物館

伊都国歴史博物館で、鎮懐石八幡宮と万葉歌碑の展示
伊都国歴史博物館での展示

糸島市の伊都国歴史博物館で、新元号『令和』にまつわる写真パネル展示。鎮懐石八幡宮の万葉歌碑も紹介されています。

このパネル展は、「万葉人がみた糸島」というテーマで、「万葉集」にうたわれ古代の万葉人も見たであろう糸島各地の風景やその場所に建立する「万葉歌碑」をパネルで紹介する内容です。

・伊都国歴史博物館  4F展望スペース(無料)

・令和元年427日~831日  月曜休館

9時~17

鎮懐石碑(神社縁起)

鎮懐石八幡宮の由来を書いた鎮懐石の石碑
鎮懐石八幡宮の由緒や伝承が記された鎮懐石碑

鎮懐石碑(神社縁起)

江戸時代1814年(文化11年)に建てられた碑で、鎮座の由来を書いている。

文は亀井南冥(かめいなんめい)の高弟、苓州江上源伯(れいしゅう えがみげんぱく)による。書は福岡藩の藩医であった米山上村樗(べいざん かみむらちょ)による。

 

碑文

筑之西偏(ちくのせいへん)の郡を怡土(いと)と曰う

怡土之邑驛(むらえきや)を深江と曰う 驛之西皋(えきやのせいこう)を萩之原(はぎのはる)と曰う

 

實は子負原(こぶがはら)なり 寶石(宝石 ほうせき)有り 名を鎮懐と曰う 世(よよ)神と而(して)之を祭ると云えり 諸(もろもろ)の國史を考うるに 神后足姫(しんこうたらしひめ=神功皇后) 氏之韓を征する也 時に應神帝を姙(妊 はらま)りて月を彌(ひさ)しくす 迺(すなわち)祝いて曰く 振旅(しんりょ)凱旋して後 分免(分娩)を願うと 乃(すなわ)ち 兩石(両石, 二つの石)を采(採)りて諸(これ)を腰帯に挿(さしはさ)み 遂に其言の如く歸(帰 かえ)りて諸(これ)を斯の原に措(置)く 往還(おうかん, 往来/行き来)する者下馬跪拝(げばきはい, 馬を降りてひざまずいて礼拝する)せざる莫(な)し 萬葉之歌に之を詠い  奇御靈(くしみたま)と曰う 奇御靈の讀みは玖志美多末(くしみたま)と為す

 

今を距(へだ)つる 百五六十年までは其石具(とも)に在り 後所在を失す 天和癸亥(みずのと三年)に至り驛民(えきみん)其一(そのいつ)を拾得す 則ち鳩有り 其家を祥(さいわい)す 是に於いて邑民(ゆうみん 村人)協議し小祠を建てて藏す 誓って人に示すを肯ぜず

 

今萬葉の紀する所を閲するに 其の大きさ尺有餘寸 その重さ十有餘斤 尋常の宮媛(きゅうえん)之得(これをえ)て 挟持(はさみもつ)所には非ざる也 顧るに神后之哲威(てつい)は殊域(しゅいき)を拖服(たふく)し 其躯幹臂力(くかんびりょく)亦夐(またはるか)に衆に超ゆる者有しか 娀(しゅう)卵を呑み姜嫄武(きょうげんぶ)を履(ふ)むこと古より之を傳う有り 其奇(そのき)又(また)甚し 何ぞ獨(ひと)り斯石を疑わん哉 邑之父老(むらのふろう) 神蹤(しんせき)之即(のただちに)堙鬱(いんうつ)するを恐れ 余に謁(こ)い之を記し 以って之を貞石(ていせき)に勒(ろく)す

 

文化甲戌(きのえいぬ 十一年)季夏 

苓州 江上源伯(れいしゅう えがみげんぱく)  華父撰(かふせん)

米山 上邨樗(べいざん かみむらちょ)  太壽書(たいじゅしょ)并(ならび)篆額(てんがく)

狂歌碑

石段の踊り場にある石碑
石段の踊り場にある狂歌碑

あらそわぬ 風の柳のいとにこそ 堪忍袋 ぬふべかりけれ

 

詠者は「真顔」鹿都部真顔(しかつべのまがお)黄表紙本作者、恋川好町のことで蜀山人の門下生。通称北川嘉兵衛という江戸の人。

 

この狂歌は江戸時代の有名な狂歌作者 四方赤良(よものあから)本名 太田南畝(蜀山人)(1749 - 1823年)の狂歌才蔵集に入っていいる。

深江放生会囃子

9月の最終土曜日11:00、例祭『放生会』が斎行され、『深江放生会囃子』が奉納されます。

放生会

万物の生命を慈しみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する祭祀。読み方は「ほうじょうえ」、福岡では「ほうじょうや」とも読みます。

深江放生会囃子(ふかえ ほうじょうえばやし)

太鼓の音に合わせて三味線・笛・鐘が演奏するお囃子は、現在糸島では唯一ここだけに残っています。

昔の写真  Old Pictures

鎮懐石八幡宮には22メートルの高石垣があります。江戸時代1682年(天和2年)、唐津城主が空閑六郎俊法に命じて社殿を再建。城壁のような石垣を築かせた。

現在、この城壁の上から海と夕日の眺望を楽しむことができます。

22-meter-high stone wall is in the shrine. The wall was built by the feudal load and castellan of Karatsu Castle.

Now, able to enjoy the commanding views of the sea and sunset on the stone wall.

 

昔は境内には大きな松の林があり、85cm以上の松の木が床板として使われています。

数十年前までは境内に大きな松の木がたくさんあったが、松食い虫被害で枯れたり、昭和24(1949)10月に伐採された。

Until a few decades ago, many big pine trees were in the precincts, the trees fell down in 1949 by damage due to pine weevils.

城壁のような高石垣

鳥居と大きな松

本殿と眺望(蒸気機関車)

鳥居付近

現在、竹に覆われてしまった境内

「竹」と「崖崩れ」に頭を悩ましながら対応を試行錯誤しています。

・繁殖力が旺盛な竹が、どんどん押し寄せてきている。

・雨が降るたびに崖の土が流され、社殿横の崖が崩れてきている。

このため、竹退治と崖崩れ対策の外仕事に多くの時間を費やしています。

新本殿  New Main Shrine

平成29(2017)年12月本殿の建て替え工事を終え、平成30年(2018)年正月は総檜造りの新本殿で皆様をお迎えしました。

Completed construction of the new main sanctuary in December 2017.


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鎮懐石八幡宮からの眺め Chinkaiseki Shrine