神社•由緒 / HISTORY

目次  Table of Contents

(1) 御祭神•御神徳  Enshrined Deities, Divine Favor

(2) 地名『子負原』の由来

(3) 歴史•由緒  History

(4) 九州最古の万葉歌碑  Oldest stone monument of Manyoshu in the Kyushu

(5) 鎮懐石碑

(6) 狂歌碑

(7) 昔の写真

御祭神•御神徳  Enshrined Deities, Divine Favor

九州/福岡/糸島の子宝神社。妊娠/妊活/不妊治療の子授け・安産の鎮懐石八幡宮。パワースポット神社。山上憶良が詠んだ万葉集の歌、九州最古の万葉歌碑。
古事記・日本書紀・万葉集の鎮懐石(皇子産石)を祀る

■ 神社名  Shrine Name

鎮懐石八幡宮(ちんかいせき はちまんぐう)

Chinkaiseki Hachimangu Shrine

 

■ 鎮座地  Address

〒819-1601

鎮座地:福岡県糸島市二丈深江(子負原) 2310-2

社務所:福岡県糸島市二丈深江(子負原) 2143-1

(Childbirth Hill) 2143-1 Nijo-Fukae, Itoshima City, Fukuoka Prefecture, JAPAN

 

■ 御祭神  Enshrined Deities

・神功皇后(子授け・安産の子宝の神様)

・応神天皇(八幡神:勝負運・勝運、出世、開運の神様) 

・武内宿祢

 

■ 歴史  History

古事記(712年)・日本書紀(720年)・万葉集(726年)等の古文書によると、今から約1800年前の仲哀天皇9年(西暦200年)に神功皇后が安産を祈願された『鎮懐石』(ちんかいせき、皇子産石)を、伊都(いと=伊斗/怡土/逸都、現在の糸島市)の深江村の原(丘)に納められたことが起源です。

丘の上に祀られた石が「皇子産石」あるいは「子産石」と呼ばれ、古代から悠久の時の流れの中で信仰されてきました。

万葉集によると、この原に神霊の宿る石をお置きになったということは、この原(子負原)が神霊によって守られる地であることを示しています。

 

■ 御利益  Divine Favor

神功皇后が安産を祈願された神石『鎮懐石』を祀る子宝神社。『子授け・安産』の御神徳が古くから信仰されてきました。

・本社の神殿に『安産』の鎮懐石がお祀りされています。

・展望所の社に『子授』の陰陽石がお祀りされています。

 

Chinkaiseki Hachimangu Shrine is a historic Shinto shrine which was enshrined the sacred stones named "Chinkaiseki" since A.D. 200 (1800 years ago) in the Japanese Mythology in Kojiki (Records of Ancient Matters) and Nihonshoki (Chronicles of Japan).

Here is a famous shrine which has power to bless couples with BABY through pregnancy and safe delivery.

[Divine Favor]

- Sacred Stones for "Safe Delivery" in the main shrine

- Sacred Stones for "Pregnancy" in the sub shrine at the overlook

 

■ 境内社  Sub Shrines

・金刀比羅宮(石橋の社):海上安全・交通安全、商売繁盛、金運

・賽三柱神(展望所の社):災厄除け、地域守護、家内安全

・猿田彦神(上り坂の石):導きの神様・道開きの神様

地名『子負原』の由来

九州/福岡/糸島のパワースポット神社。古事記・日本書紀に書かれている、妊娠/妊活/不妊治療の子授けと安産の神石を祀る子宝神社 鎮懐石八幡宮。山上憶良が詠んだ万葉集の歌、九州最古の万葉歌碑。
鳥居、万葉歌碑、鎮懐石碑、ツツジの花

■ 「子産石」(鎮懐石)と地名「子負原」

鎮懐石八幡宮は深江の「子負原」(こぶのはら/こぶがはら)にあります。「子産石」が祀られた丘「子産原」が地名「子負原」になったと伝えられています。

 

大昔、鎮懐石は「皇子産石」(みこうみいし)から「子産石」(こうみいし)と呼ばれ、それが訛って「子(兒/児)饗石」(こふのいし)と呼ばれるようになり、それが地名「子負原」になったことが古文書や郷土歴史書に記されています。

 

山上憶良の万葉歌(奈良時代726年)には「深江村 子負原」と記されています。奈良時代には、鎮懐石/子産石ゆかりの地名「子負原」と呼ばれていたことがわかります。 

歴史•由緒  History

古事記•日本書紀に書かれている鎮懐石八幡宮の歴史と由緒
日本書紀に記された鎮懐石八幡宮の由緒

■ 由緒

鎮懐石八幡宮の由緒、日本最古の書物である古事記(奈良時代 和銅5年 / 西暦712年)、日本書紀(奈良時代 養老4年 / 西暦720年)、万葉集(奈良時代 神亀3年 / 西暦726年)等の古文書に記されています。

 

仲哀天皇9年(西暦200年)、神功皇后が戦に向けてこの地を通られた時は、身籠もられていた皇子(応神天皇)産み月に当たった。戦の最中に生まれては困るため、戦いが終わり帰ってきてから産まれてほしいと安全無事な出産を祈願され、深江海岸にあった二つの石を腰に挿し挟んで鎮懐(しずめ)られた。

帰路この地を通られた時に、この石を丘の上にお納めになりました。

後世の人々から鎮懐石または皇子産石(みこうみいし) / 子産石(こうみいし)と呼ばれ崇敬されてきました。

 

●『古事記』中巻 仲哀天皇 段四《鎮懐石渡釣魚》(奈良時代 712年編纂)

《原文》

故、其政未竟之間、其懐妊臨産。即為鎮御腹、取石以纏御裳之腰而、渡筑紫国、其御子者阿礼坐。

故、号其御子生地謂宇美也。亦所纏其御裳之石者、在筑紫国之伊斗村也

《現代訳》

まだ戦が終わっていない時に、神功皇后の懐妊されていた子(応神天皇)が産まれそうになりました。そこで皇后は、腹を鎮めるために、石を腰につけました。そして九州の筑紫に渡ってから出産しました。

その皇子が生まれた土地の名を宇美(うみ)と言います。その腰に巻いた石は筑紫国の伊斗村(いとのむら)にあります

 

●『日本書紀』巻第九 氣長足姫尊 神功皇后(奈良時代 720年編纂)

《原文》

適當皇后之開胎、皇后則取石挿腰而祈之曰「事竟還日、産於茲土」其石今在于伊都縣道邊

《現代訳》

そのとき、皇后は出産が始まりそうになりました。皇后はすぐに石を取って腰に挟んで、祈って言いました。 「事を終えて、帰った日にこの地で生まれてほしい」  その石は今、伊都縣(いとのあがた)の道のほとりにある

 

●『万葉集』巻第五 山上憶良(奈良時代 726年)

《原文》

筑前國 怡土郡 深江村 子負原の海に臨める丘の上に二石あり〜中略〜 

公私の往来に馬より下りて跪拝(おろが)まずということなし。

《現代訳》

筑前国 怡土郡 深江村 子負原の海を臨む丘の上に二つの石がある。〜中略〜

街道を通る人は馬から降りて跪拝(両ひざをついて拝礼)しない人はいない。

 

『釈日本紀』逸文 巻十一 述義七「皇后取レ石挿レ腰」の項(鎌倉時代 1264年〜1301年に編纂、日本書紀の注釈書)

〜筑紫風土記 曰く〜

《原文》

逸都縣子饗原有石兩顆 一者片長一尺二寸周一尺八寸 一者長一尺一寸周一尺八寸 

色白而鞭圓如磨成 俗傳云 息長足比賣命欲伐新羅 閲軍之際懐妊漸動 時取兩石挿著裙腰 

遂襲新羅 凱旋之日至芋湄野太子誕生 

有此囙縁曰芋湄野(謂產爲芋湄者 風俗言詞耳)

俗間婦人忽然娠動裙腰挿石厭令延時 蓋由此乎

《現代訳》

逸都県(いとあがた)の子饗原(こふのはら 子負原)に二つの石が有る。一つは長さ一尺二寸、周り一尺八寸。一つは長さ一尺一寸、周り一尺八寸。 

色は白く磨かれたような丸さである。俗に伝わっているのは、息長足比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が新羅に軍を進めていた際は懐妊されており、皇子が生まれそうになられた。その時、二つの石をとって腰に挟んで身に付けられた。

新羅から凱旋された日、芋湄野(うみの)に到着して皇子が誕生した。この因縁で芋湄野(現在の宇美)と言う。

世間で妊婦の胎動が起これば、下着の腰に石をはさんで時期を延ばすのは、この由緒による。

 

〜筑前国風土記 曰く〜 

《原文》

怡土郡兒饗野(在郡西)此野之西有白石二顆 (一顆長一尺二寸大一尺重卌一斤 一顆長一尺一寸大一尺重卌九斤)

曩者氣長足姫尊欲征新羅 至於此村御身有姙忽當誕生 登時取此二顆石挿於御腰 

祈曰 朕欲定西堺來著此野 所姙皇子若此神者凱旋之後誕生其可 遂定西堺還來卽產也 

所謂譽田天皇是也 時人号其石曰皇子產石 今訛謂兒饗石

《現代訳》

怡土郡の西に児饗野(こふの)という場所がある。二個の白い石がある。一つは、長さ一尺二寸、周り一尺、重さ四十一斤。もう一つは、長さ一尺一寸、周り一尺、重さ四十九斤である。

昔、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)が新羅に遠征しようとしてこの村においでになった。

神功皇后は妊娠されていたが、産まれそうになったので、この二個の石をとって腰に挟み、祈って仰られた。

『私は、西の国境を定めようとしてこの野に着いた。孕んだ皇子が神の子ならば、凱旋した後に誕生なされるとよいだろう』

ついに西の境界を平定し、還ってからお産みになった。いわゆる誉田天皇(ほむたのすめらみこと=応神天皇)がこれである。

当時の人は、その石を名づけて『皇子産の石』(みこうみのいし)といった。今は訛って『兒(児)饗の石』(こふのいし)という

 

●『糸島伝説集』〜白く光り輝く二つの石〜(昭和48年/1973年出版)

深江の西南、500メートルの所、国道沿いに玄界灘に向かい、苔むした自然石を高く城のように築き上げたお宮がある。これが鎮懐石で有名な子負原八幡宮である。祭神は、応神天皇、神功皇后、武内宿禰の三柱であるが、御神体として祀ってある鎮懐石については奇蹟的な話が伝えられている。

 

神功皇后が松浦の津から出航する計画で、途中、怡土の津(深江)に寄港された。ある日、皇后が浜辺に出て小浜(御浜、現在の深江海岸)を歩いておられると、白い光を放ち輝く二個の石を発見された。 近づきになると普通とは思われぬ美しい石であった。

 

皇后はご懐妊の身で船で出征することは少なからず不安を感じておられ、何か安泰な道はないものかと、神にも祈ってあったので「これはただの石ではない、きっと神よりのお授けであろうと」とうやうやしく拾い上げて懐中にはさみ、天を仰いで感謝された。陣屋に帰って、子負原(こぶがはら)の丘の上に御降神の儀を行い、「願わくば、かの新羅を征してめでたく凱旋するまでは皇子の誕生なきよう御守護を垂れ給え」とご祈願になった。

 

三柱の神が託宣された行事を行って、いよいよ皇軍の兵船を海へ出されると、不思議にも、海原に住む魚がことごとく集まって来て、船を背に乗せたのであった。そして、一陣の追い風を受けると、一気に進み、その波は新羅の国に押し上がって、国の半分の陸上にまで達したという。

 

この海上の船中にも、皇后は腹部に御異常を感ぜられるごとに、常に懐にさしはさんであったこの二つの神石でお撫でになると不思議と気分が治まるので皇后はたいそうお喜びになり、絶えずこの神石をお身体から放されることはなかった

 

こうして新羅より無事凱旋なさると、めでたく胎中の天皇が御降誕になった。後の応神天皇である。皇后のご安堵とお喜びは一方ではなかった。

 

その後、皇后はこの神石を祈願の地、子負原の丘上に納めて永く祀られたのである。その後この宮の前を行き来する者は下馬したり、ひざまづいて拝んだと万葉集にも書き残されているが、この頃からこの神石を皇子産石(みこうみいし)とも鎮懐石とも呼ぶようになった。

 

なお、社前に御船をつながれたという『船繋ぎ石』(または艫綱石 ともつないし)が玉垣をめぐらし残されているのも珍しい。

また、この八幡宮前の海岸には唐図貝というよその海には見ることのできない貝が住んでいる。貝殻の紋様が唐図を現しているので唐図貝というのだが、皇后が新羅から土産物として持ち帰られたのをこの海に放たれたのが住みついたものと言われており、これも珍しい話である。

九州最古の万葉歌碑

九州/福岡/糸島の子宝神社、鎮懐石八幡宮にある九州最古の万葉歌碑。 The oldest monument of Manyoshu (The Anthology of Ten Thousand Leaves : Japan's oldest anthology of poetry) in the Kyushu region
山上憶良が鎮懐石を見て詠んだ万葉集の石碑

■ 山上憶良の万葉歌

古事記・日本書紀の鎮懐石伝承に感銘受けた奈良時代の万葉歌人 山上憶良(やまのうえのおくら詠んだ歌が万葉集に収められています。

武天皇(しょうむてんのう)の御代 神亀3年(726年)、山上憶良は筑前の国守に任ぜられ、九州に赴任した時に筑前簑島の住人 建部牛麿(たけべのうしまろ)から鎮懐石伝説を聞き、長歌および反歌に詠じて、その台詞に鎮懐石の形状、所在地、ならびにその縁起を述べています。

  

■ 糸島市指定有形文化財 九州最古の万葉歌碑

江戸時代 安政6年(1859年)に、この万葉歌を記念して九州最古の万葉歌碑が建てられました碑面は、万葉集 巻五に所載されている鎮懐石を詠じた山上憶良の歌詞題詞を刻んだものです。万葉歌碑は、糸島市の有形指定文化財となっています。

は、深江在住の豊前中津藩儒学者 日巡武ひよし たけずみよるもので、流麗な書体は美術的にも価値が高いものとされています。

 

Famous poet Yamanoue no Okura composed about the sacred stones in 726.

The oldest stone monument of Manyoshu (The Anthology of Ten Thousand Leaves : Japan's oldest anthology of poetry) in the Kyushu region was built in 1856 the Edo period about the poem.

 

萬葉集 第五

筑前守 山上臣憶良 詠ならびに序文

《読み下し文》

筑前國怡土郡深江村子負原の海を臨める丘の上に二石あり 大きなるは長さ一尺二寸六分 圍(めぐり=周囲)一尺八寸六分 重さ十八斤五両 小さきなるは長さ一尺一寸 圍(めぐり 周囲)一尺八寸 重さ十六斤十両 並(とも)に皆楕(楕円)にして状鶏の子(かたちとりのこ=卵型)の如し 其の美好(うるわ)しきこと論(あげつろ)ふに勝(と)ふべからず 所謂径尺の璧(たま)是なり

深江の駅家を去ること二十許里 近く路頭(みちのほとり)にあり 公私の往来に馬より下りて跪拝(跪いて拝む, おろが)まずということ莫し(無し)

古老相伝へて曰く 往者(いにしえ)息長足日女命(おきながたらしひめのみこと, 神功皇后) 新羅國を征討(ことむけ)ましし時 茲の両(二つ)の石を用ちて御袖の中にさし挿み箸けて 以ちて鎮懐(しずめ)と為したまひき 所以(ゆえに)行人此石を敬拝すといへり 乃ち歌を作りて曰く

 

<長歌>

懸けまくは あやに畏(かしこ)し 足日女(たらしひめ=神功皇后) 神の命(みこと) 韓国(からくに)を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代(よろずよ)に 言い継ぐがねと 海(わた)の底 沖つ深江の 海上(うなかみ)の 子負の原に み手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇魂 今の現に 尊きろかむ

<反歌>

阿米都知能 等母爾比佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻 志可志家良斯母

天地(あめつち)の 共に久しく 言ひ継げと この奇魂(くしみたま) 敷かしけらしも

 

《現代訳》

筑前国怡土郡深江村(現在の福岡県糸島市二丈深江)子負原の海を臨む丘の上に二つの石がある。大きい石は、長さ一尺二寸六分、周囲一尺八寸六分、重さ十八斤五両。小さい石は、長さ一尺一寸、周囲一尺八寸、重さ十六斤十両。両方とも楕円形で卵のような形をしている。その美わしいことは言うに及ばず。まるで直径30cmの璧(古代中国で祭祀用や威信財として使われた玉器)である。

 

深江の駅家(うまや, えきか=古代駅伝制の役所)から約8km(二許里=約800mが正しい表記であろうと言われている)の道のほとりにある。往来する人は公私にかかわらず馬から降りて跪き拝まない人はいない。

 

古老の伝えによると、遠い昔 息長足日女神の命(神功皇后)が新羅に遠征された時、二つの石を袖の中に挿し挟んで身に付け鎮懐(しずめ)られた。このため道行く人はこの石を敬い拝むと言う。この歌を作って詠う。

 

<長歌>

口に出して言うのも畏れ多い神功皇后が、新羅の国を平定される時、御心を鎮めるために手に取られて大切に祈りを込められた美しい玉のような二つの石を、世の人々に示されて万代に言い継ぐようにと、海の底 深江の海上にある子負原にご自身の手で置かれて、神として神々しい霊妙な神石は今現在も尊いことである。

<反歌>

天地が永久であるように共に永遠に語り継ぐように、この不思議な力を持つ霊石がここにお祀りされたことで、この地(子負原)は神霊が宿り守られていくのだろう。

山上憶良が詠んだ万葉集の歌、九州最古の万葉歌碑の拓本。 The oldest monument of Manyoshu (The Anthology of Ten Thousand Leaves : Japan's oldest anthology of poetry) in the Kyushu region
奈良時代726年、筑前守 山上憶良が詠んだ万葉集

鎮懐石碑(神社縁起)

鎮懐石八幡宮の由来を書いた鎮懐石の石碑
鎮懐石八幡宮の由緒や伝承が記された鎮懐石碑

■ 鎮懐石碑(神社縁起)

江戸時代 文化11年(1814年)に建てられた碑で、鎮座の由来を書いている。

文は亀井南冥(かめいなんめい)の高弟、苓州 江上源伯(れいしゅう えがみげんぱく)による。書は福岡藩の藩医であった米山 上村樗(べいざん かみむらちょ)による。

 

■ 碑文

筑之西偏(ちくのせいへん)の郡を怡土(いと)と曰う

怡土之邑驛(むらえきや)を深江と曰う 驛之西皋(えきやのせいこう)を萩之原(はぎのはる)と曰う

 

實は子負原(こぶがはら)なり 寶石(宝石 ほうせき)有り 名を鎮懐と曰う 世(よよ)神と而(して)之を祭ると云えり 諸(もろもろ)の國史を考うるに 神后足姫(しんこうたらしひめ=神功皇后) 氏之韓を征する也 時に應神帝を姙(妊 はらま)りて月を彌(ひさ)しくす 迺(すなわち)祝いて曰く 振旅(しんりょ)凱旋して後 分免(分娩)を願うと 乃(すなわ)ち 兩石(両石, 二つの石)を采(採)りて諸(これ)を腰帯に挿(さしはさ)み 遂に其言の如く歸(帰 かえ)りて諸(これ)を斯の原に措(置)く 往還(おうかん, 往来/行き来)する者下馬跪拝(げばきはい, 馬を降りてひざまずいて礼拝する)せざる莫(な)し 萬葉之歌に之を詠い  奇御靈(くしみたま)と曰う 奇御靈の讀みは玖志美多末(くしみたま)と為す

 

今を距(へだ)つる 百五六十年までは其石具(とも)に在り 後所在を失す 天和癸亥(みずのと三年)に至り驛民(えきみん)其一(そのいつ)を拾得す 則ち鳩有り 其家を祥(さいわい)す 是に於いて邑民(ゆうみん 村人)協議し小祠を建てて藏す 誓って人に示すを肯ぜず

 

今萬葉の紀する所を閲するに 其の大きさ尺有餘寸 その重さ十有餘斤 尋常の宮媛(きゅうえん)之得(これをえ)て 挟持(はさみもつ)所には非ざる也 顧るに神后之哲威(てつい)は殊域(しゅいき)を拖服(たふく)し 其躯幹臂力(くかんびりょく)亦夐(またはるか)に衆に超ゆる者有しか 娀(しゅう)卵を呑み姜嫄武(きょうげんぶ)を履(ふ)むこと古より之を傳う有り 其奇(そのき)又(また)甚し 何ぞ獨(ひと, 独)り斯石を疑わん哉 邑之父老(むらのふろう) 神蹤(しんせき)之即(のただちに)堙鬱(いんうつ)するを恐れ 余に謁(こ)い之を記し 以って之を貞石(ていせき)に勒(ろく)す

 

文化甲戌(きのえいぬ 十一年)季夏 

苓州 江上源伯(れいしゅう えがみげんぱく)  華父撰(かふせん)

米山 上邨樗(べいざん かみむらちょ)  太壽書(たいじゅしょ)并(ならび)篆額(てんがく)

狂歌碑

石段の踊り場にある石碑
石段の踊り場にある狂歌碑

あらそわぬ 風の柳のいとにこそ 堪忍袋 ぬふべかりけれ

 

詠者は「真顔」鹿都部真顔(しかつべのまがお)黄表紙本作者、恋川好町のことで蜀山人の門下生。通称北川嘉兵衛という江戸の人。

 

この狂歌は江戸時代の有名な狂歌作者 四方赤良(よものあから)本名 太田南畝(蜀山人)(1749 - 1823年)の狂歌才蔵集に入っていいる。

昔の写真  Old Pictures

鎮懐石八幡宮には22メートルの高石垣があります。江戸時代 天和2年(1682年)、唐津城主が空閑六郎俊法に命じて社殿を再建。城壁のような石垣を築かせた。

現在、この城壁の上から海と夕日の眺望を楽しむことができます。

22-meter-high stone wall is in our shrine. The wall was built by the feudal load and castellan of Karatsu Castle.

Now, able to enjoy the commanding views of the sea and sunset on the stone wall.

 

境内には大きな松の林があり、85cm以上の松の木が床板として使われています。

数十年前までは境内に大きな松の木がたくさんあったが、松食い虫被害で枯れたり、昭和24(1949)年10月に伐採された。

Until a few decades ago, many big pine trees were in the precincts, the trees fell down in 1949 by damage due to pine weevils.